2007年04月19日

東京都知事選・20

(おまけ) 2007年東京都知事選の最良の瞬間を、備忘のために記録しておく。
≪浅野史郎・新宿東口最終演説/13分≫
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東京都知事選・19

ayaya.jpg これまであえて書くのを自粛してきたことを、最後なので書くことにしたい。それは、私は黒川紀章のデタラメさが実は大好きだ、ということである。自らクルーザーを操縦して隅田川を溯上したり、ヘリコプターで伊豆諸島まで飛んでみたり、ガラス張り選挙カーで石原慎太郎の選挙演説に乱入し、「銀座の恋の物語」を大声で歌って妨害するとか、その選挙活動のすべてが好きだった。開票速報を見てガックリと落ち込んでいるところとか(本気で当選すると思っていたらしい)、その一挙手一投足からつねに目が離せなかったし、最初から最後まですべてが謎であり、バカバカしく、それでいてクールだった。

 実際、都知事選はパフォーマンス選挙である。有権者が1000万人もいるような巨大選挙区では、もはや街頭演説など何の意味ももたない。そこでは、いかに自らのイメージをうまくマスコミに載せるかということだけが問われており、それに石原は成功し、浅野は失敗した、というだけのことだ。浅野のマラソン姿を見て、落選を確信したのは私だけではあるまい。プレスリーを歌うのは悪くなかったが、いかんせん小泉の二番煎じであったのは最悪だった。

 ところで、黒川紀章がはじめて出馬を表明したとき、彼が石原の古くからの友人であること、日本会議のメンバーであることから、とんでもない保守反動の候補である、などと言われた。しかし私は、ある理由から、ずっと昔から彼の言動には人並みはずれた注意を払ってきたのだが、この男がかつて何か政治的な発言をするのを聞いたことがない。だから今回の出馬は、単純に(オリンピック受注をめぐる)私怨に端を発したものであると私は考えている。

 さて、ある理由――もうすでにお気づきかもしれないが――それは、彼が他ならぬ「若尾文子の夫」である、ということである。若尾文子。ああ、ここにこうしてその名を記すだけでも、はげしく胸がふるえ、熱くこみあげてくるものを抑えることができない。――私の青春のすべて。生きることのパッション、情熱と受苦をあますところなく教えてくれた不世出の女優、若尾文子!

 古い話だが、黒川紀章が「きみはバロックだ」というセリフで若尾文子を口説いたという話は、ある年代以上の人間なら誰もが知っている。しかしこの言葉は、私にとって長い年月のあいだ、大きな謎であった。若尾文子のどこがバロックなのか?――確かに、「刺青」や「清作の妻」や「赤い天使」における若尾文子の激情は、例えばローマにあるベルニーニの「聖テレジアの法悦」などを連想させなくもない。しかし今回、ブラウン管で見かけた若尾文子は、あたかもボッティチェッリの描く聖母のように、ただやさしく静かに微笑んでいるのだった。私にとって2007年の都知事選は、駄作「春の雪」に出演して以来、ひさびさに若尾文子が人々の前に姿を現した、というこの奇蹟のような一瞬によって長く記憶されることになるだろう。(了)
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2007年04月11日

東京都知事選・18

ishihara_shintaro.jpg 当選後、さっそく傲慢モード全開に戻った石原慎太郎が、「神戸の地震で(自衛隊に派遣要請する)首長の判断が遅れて2000人が死んだ」と発言した。これに対して兵庫県知事らが猛反発し、「全く根拠のない発言」などと抗議している。

 だが考えてみれば、ベルクソン発言にしても、ババア発言にしても、かつて石原の発言に何か根拠があったことなど、一度だってない。はっきり言って、すべてが捏造である。しかしそれでも、「2000人が」とか、「ベルクソンが」とか、「何々教授が」とかヌケヌケと言われると、一瞬、根拠があるのかと誰もが思ってしまう。稀代のペテン師たるゆえんである。

 石原はまた同時に、「情報公開は難しい」「職員のプライバシーにも関わってくる」などとふざけた発言をし、警察の捜査報償費の公開についても、「おかげで警察の捜査は非常に難航するようになった」「この種の情報開示は間違ってるし、するつもりはない」と述べた。報償費が、現場の捜査に全く使われずに、巨大な裏金となっていることは多くの証言からも明らかであるのに、このようなデタラメを信じている都民は数多くいる。

 ともあれ、石原の悪政について、まだまだ書き残したことは多い。しかしもう紙幅がなくなってきたので、書こうと思っていた項目のメモだけを備忘のために記しておく。(次回完結)

・トーキョーワンダーサイト事業と「能オペラ」
・ヘブンアーティスト制度(大道芸人のライセンス化)
・文化予算の削減(東京都交響楽団問題→楽団員の有期雇用化、評価制度の導入)
・新宿2丁目への弾圧、(刑法の前田雅英による)エロ漫画規制
・知事交際費と豪遊(ガラパゴス旅行)
・民主党都連の(石原側近)極右偏向都議
・危険きわまりない「三宅島オートレース」
・「築地」移転問題
・「お台場カジノ構想」はどこへ?
・外型標準課税の失敗と「新銀行東京」の累積赤字
・オリンピックとファシズム
・藤原紀香と中村勘三郎が石原を支持した件
・焼酎「森伊蔵」
・『太陽の季節』を読む
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2007年04月10日

東京都知事選・17

asano_shiro.jpg 「浅野史郎」と「佐野史郎」は似ているなどと世上よく言われるが、この名前を聞いて、映画マニアがすぐに連想するのは「浅野四郎」のことである。浅野四郎は、1899年に日本で初めて映画(「芸者の手踊り」なる短編ドキュメンタリー)を撮った人物として、映画史上に記憶されている。他にも「化け地蔵」「死人の蘇生」などといった、題名を聞いただけでもワクワクするような映画を撮っていたらしいが、すべて残念ながら私は見たことがない(というか現存しない)。

 それはさておき、浅野史郎である。私のまわりは基本的に反石原の人間ばかりなので、「(東京では)どうして石原があれほど支持されるのか?」という疑問の声がひじょうに多かった(今日までに10人以上に訊かれた)。「石原を倒せるのは田中康夫だけ」と個人的にはずっと思い続けてきたが、現在言われているように、対抗馬としての浅野史郎にそれほど魅力がなかったとは私は思わない。やはり今回は、選挙戦術のマズさが決定的だった、と思う。

 石原慎太郎の人気を支えているのは、まず何よりも「決断力」「行動力」「国に対してはっきり物を言う」などのイメージであり、これは要するに、かつての“小泉人気”と全く同質のものである。それに対して浅野は、民主党との関係が不透明だったこと、「オリンピック」「築地」に対して曖昧な態度を示したこと等々によって、「優柔不断な浅野」というイメージが完全にできあがってしまった。「立ち止まって考える」という姿勢が完全に裏目に出てしまった。ワンフレーズ・ポリティクスが流行りの当節では、「分かりやすさ」こそが至上の価値とされるのだろう。

 ともあれ教訓として、「分かりやすさ」は選挙戦術として極めて重要。しかし同時にまた、ここには危険も含まれている。それによって切り捨てられてしまうものも、たくさんあるからだ。「うるさい、黙ってろ!当たり前の手順を踏んで、民主的にやるんだよ!物事は多数決なんだから!」と石原は言う。このような発言に激しく違和感を覚えるのは、そこに「対話」と「合意形成のプロセス」が全く存在しないからである。そのような態度を、断じて「民主的」とは言わない。(続く)
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2007年04月08日

東京都知事選・16

simokita.jpg というわけで、ついに投票日である。開票結果を見るまでもなく、石原慎太郎が圧勝することであろう。

 浅野陣営による選挙戦術のあまりの拙劣さ(土壇場になって急に民主党が前面に出るとか、バッシング対策とか)に、こちらも何となくやる気がなくなって、この一週間ほどはブログが更新できなかった(すみません)。

 あとは4年後を待つか、任期中に死ぬのを待つしかない。とりあえず、石原が死んだら赤飯を炊いて祝うことにしたい。

 前回書いた、あの下北沢の街並みも、遠からず解体されるかもしれない。先日、シモキタを遊説で訪れた石原慎太郎が、はげしい「石原帰れ!」コールについにブチ切れて、「うるさい、黙ってろ!当たり前の手順を踏んで、民主的にやるんだよ!物事は多数決なんだから!」と怒鳴りまくったそうだから。同じように、新宿2丁目のゲイタウンにも、これから厳しい弾圧が待ち構えている。

 とりあえず、ここからまた新たな反石原闘争が始まるわけだ。(続く)
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2007年03月30日

東京都知事選・15

shimokita.jpg 下北沢というとすぐに、「ああ/下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ/ここには湖がない」という吉増剛造の「黄金詩篇」の一節をいつも思い出してしまうのだが、「Save the 下北沢」というホームページを見ても分かるように、数年前からゆれ続けている下北沢の再開発計画は、いっこうにストップする気配がない。今回、浅野史郎氏が2度も下北沢入りしたように、まさにこのシモキタの町が生きるか死ぬか、今回の都知事選にかかっているわけであり、何としても石原の3選だけは阻止しなければならない。

 石原慎太郎の唱える「東京オリンピック」誘致計画が事実上、不可能であることは誰もが知っている。しかし石原は「人間は夢がないと生きていけない」「道路建設の引き金になる」などと平然と主張している。「なぜファシストはオリンピックが好きか」についてはまた稿を改めるとしても、こんな杜撰な計画に4000億もの予算を平気でつぎこむ人間の気が知れない。1000億の都税を投入して作られた「新銀行東京」(通称、慎太郎銀行)が、すでに500億もの累積赤字を出していることを忘れたのだろうか。

 もちろん誰でも分かるように、新たな環状道路を作っても、さらなる交通量が増すだけであり、それによって東京の交通渋滞が解消するわけではない。このことは下北沢でも同様で、「補助54号線」の建設が、結果としてシモキタの町を真っ二つに分断して、都市の魅力を大きく損ねてしまう無意味な計画であることは明らかである。このような計画が、多くの住民の反対を無視して強引に進められようとしていることには憤りを感ぜざるを得ない。

 シモキタは歩行者(フラヌール)の町だ。ただ歩行することが悦びをもたらす町並み。そんな場所は決して数多くあるわけではない。京都、根津・谷中、ヴェネツィア、タンジール……etc. etc. (続く)
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2007年03月27日

東京都知事選・14

 今日、東京にいる父親へ電話する用事があったので、ついでに都知事選のことを聞いてみた。

 私「……で、都知事選は誰に入れんだよ?」
 父親「え?いや、オレは昔から慎太郎だから。」
 私「浅野にしとけ。」
 父親「浅野?!岩手だかどっかで失敗したんだろ?」
 私「デマだって。」
 父親「隣の国と仲良くしろとかバカなこと言ってんだろ。」
 私「……。じゃ、せめて黒川にしとけ。」
 父親「ダメだって、あんなの!あいつ、頭おかしくなったんじゃねえか?」
 私「いいから、浅野にしとけって。」
 父親「ドクター中松のほうがマシだろ。」
 私「じゃあ、ドクター中松にしとけ。」(電話切る)

 まあ、下町の町工場のオヤジなんて大概こんなものである。インテリにはとうてい理解できないだろうが……。(続く)
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東京都知事選・13

senkyo11.jpg 先日、外山恒一のことを書いたら、さっそくYouTubeに政見放送がアップされて話題になっている。

 外山恒一の政見放送(YouTube)

 意外とおとなしくてシンプルである。「選挙なんてしょせん多数派のお祭りだ!」「もはや政府転覆しかない!」などとストレートに主張を述べている。外山恒一といえば、DV男だとか、山の手緑に暴力を振るっただとか、イヤなやつだとか、そんな悪いウワサしか聞いたことがなかったが、実物を見るのはこれが初めてである。「いい声だなー」とか「演説慣れしてるなー」とかいろいろ思ったところもあるが、それは措いておく。問題は、その発言がまったく「非政治的」であることだ。

 この連載(?)の最初にも書いたように、たぶん政治性というものはある種の「いい加減さ」と不可分で、その意味で原理主義(的な態度)と対立する。このことは、今回の都知事選における共産党の態度を見れば分かることだ。発言の適切さは、その発言内容の正しさとは関係がない。

 問題は、正しい発言をすることではない。正しく発言することだ、と思う。(続く)


※画像は1979年の都知事選に立候補した秋山祐徳太子(泡沫候補の元祖)。
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2007年03月25日

東京都知事選・12

uchida_yuya.jpg ふと思い立って、磯村尚徳氏が「銭湯でお年寄りの背中を流す」画像をあれこれ探していたのだが、なかなか見つからない。当時(1991年)、磯村氏は国際派のアナウンサーで、フランス語が堪能なキザ男として知られていたから、このパフォーマンスには強烈なインパクトがあった(もちろん結果としては全くの逆効果だったが……)。磯村氏の対抗馬は現職の鈴木俊一氏で、こちらは出馬当時80歳だったが、「立ったまま前屈して地面に手をつき、若さをアピールする」というパフォーマンスが功を奏し、見事に当選した。

 この年の都知事選は、上記2名の他に、アントニオ猪木も出馬を表明して話題になった。しかし、どういうわけか猪木は直前になって出馬を取りやめた(何らかの裏取引があったとされる)。これをきっかけに、歌手の内田裕也が参戦を表明。そのめちゃくちゃな政見放送をよく覚えている。

 内田裕也の政見放送(YouTube)

 ブラウン管に現れた内田裕也はいきなり英語(いま見るとかなりブロークン)で話し始め、「Power to the People!」とやる気なさそうに歌った。そういえば、雑民党・東郷健氏の政見放送にも、子供心に強烈なインパクトを受けた(生まれて初めてゲイの人を見た)。

 今回の都知事選には、自称ファシストの外山恒一も出るようなので、その政見放送には注目している。(続く)
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2007年03月24日

東京都知事選・11

syukan20070330.jpg パソコンが壊れている間に、都知事選が告示された。やっと新しく買い換えたので(もちろん中古)、今日からは毎日欠かさず現職都知事の悪行を書き連ねていこうと思う。なにしろ、書くべきネタはいくらでもあるのだ。マスコミでは「石原圧勝説」まで流れているが、現在の差は10ポイント。このままではかなり苦しい。しかし風さえ吹けば逆転できる数字だ(それに公明票の行方が気になる)。

 最近の石原慎太郎をウォッチしていて気がつくのは、傲慢な態度を一切消していること。テレビなどで厳しく批判されてもニコニコとしている。実に気持ち悪い。きっと毎日、陰では「バカ野郎!」などと周囲にキレまくっているのであろう。相当ストレスをためているのに相違ない。

 聞くところによると石原は、週に2、3日しか都庁に出勤しないらしい。それも平均4、5時間で帰ってしまうとか。それでも都知事が務まるのは、もちろん浜渦をはじめとする側近がすべて仕切っているからである。実はワーキングプアである私も、現在は週に3日しか働いていないのだが、知事の報酬は年間2800万円、それに対して私の年収は96万円である。だから何だと言われるかもしれないが、まあ、それだけである。

 こんな世の中どうなんだ、ということで、近いうちに職場で労働組合を作ることにした。都知事選とは何の関係もないが、この選挙が終わったら、労働問題についてもいろいろと書いてみようと思う。(続く)
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2007年03月20日

東京都知事選・10

asano.jpg 昨日つい熱くなってしまったのは、朝日の2回目の情勢分析が出て、石原の支持がやや拡大傾向にあるとの記事を読んだからだ。浅野史郎がいまいち浸透しない原因を探ってみると、まず、知名度がない。そして見た目が地味である。東京の人間はミーハーだから、やはり何かと派手な、話題性のある人物を好むのだ。

 しかし、浅野史郎は意外と面白い。「浅野氏、下ネタも情報公開」(日刊スポーツ)という記事を読んでみると、歌舞伎町の「ロフトプラスワン」で開かれたイベントで、浅野はプレスリーを熱唱しながら登場し、おもむろに「日本のケネディ、私のリサイタルにようこそ。毛があるのにケネディ(笑い)」と言い放ったという。これはなかなかのセンスである。

 このへんの面白さをうまくメディアに乗せることができたら、この勝負は決して勝ち目がないわけではない。都知事選といえば、何といってもパフォーマンスである。かつてNHKアナウンサーの磯村尚徳が、「銭湯でお年寄りの背中を流す」という、あまりにもあざといパフォーマンスを見せて敗北したことがあった(小沢一郎の指令で行われたらしい)。そこまでいかなくとも、浅野氏には、ここらでアッと驚く話題作りをして、とにかく祭りを盛り上げてもらいたい。もはや政策だけの正攻法で勝てる選挙ではない。

 稀代のトリックスター、黒川紀章に決して遅れをとってはならない。(続く)
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2007年03月19日

東京都知事選・9

ueno.jpg 若桑みどり、上野千鶴子らを発起人とする「アサノと勝とう!女性勝手連」が発足した。結成会の席上で上野千鶴子は、「石原知事が居座るんだったら、私は東京都民をやめようと思います。選挙は勝たなければなりません。浅野さんと一緒に、私たちが勝とうということです」と発言したという。彼女が特定の政治家に対して、全面的な支持を表明することはあまりない(と思う)。

 上野千鶴子といえば、「国分寺市・人権講座事件」を思い出す人も多いだろう。これは2006年1月、東京・国分寺市が、都の委託事業である人権講座に彼女を講師として招く予定がありながら、それを(「ジェンダーフリー」という言葉を使用する恐れがあるとして!)都教育庁が拒否した、という事件である。この事件がどのようにして起こったか、そして石原慎太郎が例によって定例会見でどのような発言を行ったかは、上記リンクをたどれば詳しく見ることができる。まさに驚くべき言論弾圧である。

 石原都政において、このような例はもはや日常茶飯事と化してしまっている。私たちは石原の数々の暴言や、その他もろもろの行いに対して、あまりにも慣れさせられてしまった。感覚を麻痺させられてしまった。私には、ここまで書いてきて、もはや徒労感以外の何物もない。

 思えば、私が上野千鶴子から深く影響を受けたのは、フェミニズムの理論もさることながら、やはりその生のスタイルというか、他者に対する根本的なスタンスの取り方というか、まあそんなものだったように思う(ちなみに彼女ほど多くの人に誤解されている人物を私は知らない)。そして、私が何よりも学んだのは、「(ここぞという)正しいタイミングで正しい発言をする」ということ。上野千鶴子の素晴らしさは、まさにこの一点に尽きると思う。言い換えれば、つねに<政治的に>振る舞うということ。

 実際、「選挙は勝たなければならない」。そうだ、その通りだ。そうでなければ意味がない。左翼とは、端的に「言葉によって世界を変えることができると信じる人」のことであり、もしそうであるとするならば、ここで私(たち)もまた、正しく発言することによって、世界にインパクトを与えなければならない。勝つための「言葉」を、新しく練り上げなければならない。(続く)
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2007年03月16日

東京都知事選・8

cartier.jpg 東京の下町に東京都現代美術館というのがあり、実家のすぐそばなので帰省のたびによく見に行く(子供の頃、ここは広大な空き地でよく虫取りなどをした)。東京にはバブル全盛期に次々と作られた巨大なハコモノがあって、東京都庁舎、江戸東京博物館、東京国際フォーラム、新国立劇場、そしてこの現代美術館を合わせて「バブル五大クズ建築」と呼ばれている。これを命名したのは磯崎新だが、彼の『東京現代建築ほめごろし』という本はなかなか面白い。

 むかし、ここで展示を見ていたら、視察中の(今は亡き)青島幸男にばったり出くわしたこともある。大勢の役人を引き連れてガランとした展示室に突然乱入してきた青島都知事は、「これは光琳だね」と私のほうへ話しかけてきた。それは有名な風神雷神図屏風をパロディにした現代絵画であったが、そばの役人はすぐに「宗達です」と訂正した。

 そんな私にとって思い出深い美術館なのであるが、ここでも石原慎太郎は、およそ信じがたい暴言を残している。それは昨年、カルティエ財団コレクション展の開幕式典においてのことだ。来賓として招かれた石原は、居並ぶ列席者を前にして、当のコレクションの内容を罵倒し始めたのだ。「現代芸術はガラクタ」「こんなものをコレクションするくらいなら日本人作家の作品を大量購入するべきだ」「西欧芸術よりも日本芸術のほうが優れている」など、彼は言いたい放題に発言し、居並ぶ関係者すべてを凍りつかせた。事情を知らぬ人たちは、「彼は酔っ払っているのか?」とささやき合った。当日の模様は「リベラシオン」の記事に詳しく報告されているので、ぜひ目を通して頂きたい。

 実際に、カルティエ展の内容がすぐれたものであったか否かは(見てないので)ここでは措いておく。石原の暴言は、それよりずっと以前の問題である。そもそもこの男は、アートなどには無縁の男なのだ。私は美術館で出会った青島幸男の、慎ましやかで気さくな態度を今では懐かしく思い出す。

 こうして、東京都現代美術館の作品購入費はついにゼロとなった。もちろん一方で石原が、自称画家の四男のためには、多額の予算(東京ワンダーサイト事業)を使いまくっていることは言うまでもない。(続く)
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東京都知事選・7

bergson.jpg フランス関係では、「ベルクソン発言」もつとに有名である。2005年11月、紀宮の結婚披露宴に出席した石原慎太郎は(新郎がたまたま東京都の職員だったため)、天皇夫妻の臨席するその席で、次のような乾杯のスピーチを述べたという。

 「フランスの哲学者のベルグソンであったと思いますが、神さま仏様を信じる信仰と、結婚というのは非常に本質的に似ている。その本質の原理は『一種の賭け』だということを書いておりました。(……)そういう素晴らしいお二人の賭けの配当に、私たちだけでなく都民、国民がご相伴にあずかれることを祈念します。」

 この発言は、日本のベルクソン研究者たちの間に、深い驚きと困惑をもたらした。誰もそんな言葉を知らなかったからである。当時の日刊スポーツを引用してみる。

 「『ベルクソンとカントの社会論』(近代文芸社)の著者、筒井文隆東京学芸大名誉教授(西洋近現代哲学=65)は「私の記憶の限りではそのような言葉はありません。ベルグソンに人間同士の問題である結婚と、信仰とを同列に見るという考えはなかったと思います。『信仰とは賭けである』とはパスカルの言葉だと思うのですが……」。ベルグソンの著作『物質と記憶』の訳者・田島節夫(さだお)氏(80)も「そのようなベルグソンの言葉は聞いたことがない」と話している。」

 そもそも「結婚は賭け」などという紋切型を、堂々と人前で述べてしまうことすら恥ずかしいが、それにありもしない出典まで捏造して箔をつけている。要するに、この男は何から何までデタラメなのである。石原はその後、この件を定例会見でつっこまれて逆ギレしていたが、そのやり取りには石原慎太郎という人物の人間性がよく出ているので、以下に全文引用しておく。

 2005年11月18日 石原都知事定例記者会見

【記者】あともう一つ、先日、黒田さんと、今は黒田清子さんになられた紀宮様の結婚式に出られて、かなりほのぼのとした披露宴だったと思いますけれども、その中で、知事、すいません、フランスのベルグソン……。
【知事】ああ、なんか日刊スポーツに出てたね。記事のためにするみたいな記事でね。だから私、確かじゃないから、だろうと思いますって言ったんだけど、パスカルなの?
【記者】いや、すいません。それは私もよく。
【知事】それなら、パスカルにこういう文書があるって言ってくれよ、そんなもん。メディアの程度の低さを示すような記事じゃないか。
【記者】ちなみに知事は定かでないとおっしゃいましたけれども、どっかでやっぱりベルグソンだっていうふうに。
【知事】多分ベルグソンの雑文の中で読んだような気がするんですよ。有名な論文の中の文章じゃないからね。例えば、『純粋理性批判』とか『宗教問題の諸相』とか(※)、その他この他、私が愛読した本とは違って、ざっと読んだものの、ベルグソンだったかなってんで私は言ったんで。
(※いずれもベルクソンの著書のタイトルとしては存在せず。『純粋理性批判』はカントの著作)
【記者】分かりました。すいません。
【知事】だから反論するんなら反論して。ここにいるのか、日刊スポーツ。手を挙げて出てこいよ。お前ら、人に下らん記事を書くんなら、パスカルかどうかってのを調べてこいよ。それがメディアの責任ってもんだろ。どうなんだい。
【記者】そういう声が上がってるということを……。
【知事】声があがってるって、論拠を示してくれ、論拠を。ベルグソンなんてあんまり人が読まないからね。パスカルだって読まないんだろうけど。論拠を示すっていうのがメディアじゃないの、あなた。揚げ足取りみたいな、こんな下らん記事を作るなよ、お前。新聞の品格にかかわるぞ。バカじゃないかと思うよ、こういうのを見ると、本当に。安っぽい新聞だな。

(引用終わり、続く)
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2007年03月15日

東京都知事選・6

francais.jpg 「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格している」という発言は、石原慎太郎の数ある暴言のひつとして記憶されている方も多いだろう。私が書きたいのは、これが単なる無意味な放言ではなく、都立大学の仏文科をぶっつぶすための根拠としてなされた発言だということである。

 石原は他にも、「首都大学東京の改革に反対している先生の多くは語学の先生だった。調べてみたら、8〜9人かな、10人近いフランス語の先生がいるんだけど、フランス語を受講している学生が1人もいなかった」「先進国の東京の首都大学で語学に対する学生たちの需要というのも、フランス語に関しては皆無に近い」などと発言している(もちろんデタラメである)。

 「数を勘定できない」というのは、フランス語の数の数え方に二十進法が混ざっていることを指しているらしい。簡単に説明すると、例えば「91」だったら「4×20+11」と表すといった、そういうことである。これは、両手両足を使って数を数えたケルト語のなごりであって、少々複雑だが、もちろん数が勘定できないわけではない。

 当然、この発言は、多くのフランス人やフランス語教師たちを激怒させ、ここでも多くの抗議声明が出された。明治大学のフランス語教員たちは、抗議書にフランス語学習セットを添えて石原に手渡した。そこには、「毎日コツコツ勉強すれば、数は勘定できるようになります」と書かれていた。

 その後、発言によって社会的名誉を傷つけられ、あるいは営業妨害を受けたとして、フランス語学校長らが石原に謝罪と発言撤回を求めて訴訟を起こした。裁判マニアの私は、長らくこのフランス語裁判に興味を持って注視してきたが、先月より民事から国賠訴訟へ切り替えられたようである(石原が最近になって、あれは個人的な発言ではなく公務上の発言だったと言い出したから)。しかし彼はいったい、賠償金を都民の税金から払わせるつもりなのだろうか?

 私は大学で、フランス語ではなくイタリア語を専攻したので、フランス語がいかに鼻持ちならない言語であるかを知っている(私はフランスという国と文化にあまり思い入れがない)。しかし石原の発言は、全くそんなこと以前の問題だ。いわゆる「ババア発言」や「三国人発言」と同レベルの、およそナンセンスとしか言いようのない戯言にすぎない。

 最後に、とても役に立つフランス語のフレーズをひとつ。

 "Ishihara, démission!"(石原辞めろ!)

 これを毎日言い続けることが必要だ。

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2007年03月13日

東京都知事選・5

kubidai.jpg 都立大学も悲惨なことになった。

 かつては文系の名門として知られた東京都立大学――だが、いまや石原慎太郎の手によって「首都大学東京」となり、人々から首大(クビダイ)と蔑まれるようになった。「滝川事件」さながらの弾圧によって、大学の自治は完全に失われた。

 そもそもの始まりは、石原が知事選二期目の公約に「全く新しい大学を作る」という一項を(思いつきで)入れたことに始まる。それはある意味、正しかった。学長を教授の選挙で選ばない大学。現場の声は一切聞かず、すべてがトップダウンで決められる大学。市場原理が貫徹した大学。そんな大学は、たしかにこれまでなかった。

 新大学への移行計画は、教授や学生たちの全くあずかり知らぬところで作成され、唐突に発表された(情報公開ゼロ!)。驚くことに、当時の総長でさえ、新設大学の議論に参加することができなかったという(したがって、大学の設立理念や組織設計などは、すべて河合塾に外注して作成されている)。

 その過程で、「実学」とは認定されなかった文学系5専攻(英文・独文・仏文・中文・国文)は完膚なきまでに解体された(篠田一士が生きていたら何と言うだろうか?)。予算削減のために、英語の授業はベルリッツに外部委託されることになった。

 当然のことながら、全学部で猛烈な反対が巻き起こり、150もの抗議声明や公開質問状が出された。しかし石原はこれをすべて無視した。結果として、大量の教員がこの大学に見切りをつけ、外部へ流出することになった。

 なかでも、近代経済学のCOEグループでは、相次ぐメンバーの抗議辞職によって、ついに研究継続の断念を余儀なくされた。しかし石原慎太郎は、「一部のバカ野郎が反対して金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と言い放った。私はこの一言を決して忘れることはないだろう。(続く)
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2007年03月11日

東京都知事選・4

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 都立高校で必修化される「奉仕」科目について、具体的な各校の授業計画を見てみる。ざっと見渡したところでは「地域の清掃活動」や「高齢者福祉施設との交流」などが主で、ほかに「絵本の読み聞かせ、手作りの人形劇や紙芝居」「水泳指導の手伝い」「救急救命体験」「点字学習」「防犯パトロール」「パソコンボランティア活動」「リサイクル啓発パンフレット作成」「駅前駐輪場の整頓」「地方情報紙の発行」「交通安全マスコットの作成」「花いっぱい運動」といったものがある。中には、「使用済み切手整理」「マナー講習」「清掃工場ゴミ処理施設の見学」といった、どこが奉仕活動なのかよく分からないものもある。

 目を引くのは「東京マラソンでのボランティア」である。東京マラソンとは、先日、石原慎太郎が自らの露骨な人気取りのために行ったイベントで、真冬の冷たい雨の中、3万人のランナーを罰ゲームのように走らせ、なおかつ都内の交通を完全に麻痺させたというワンマンイベントの手伝いをさせるものである(どうやら来年もやるつもりらしい)。

 ボランティアが強制されたらそれはただの「勤労奉仕」にすぎない。いわば体のいい「タダ働き」である。単位と引き換えに不払い労働を強要するのは畜生にも劣る所業である。それでも、「ボランティアはいいことじゃないか」と言う方がいるかもしれない。しかし、ここで私がいつも思い出すのは池田浩士氏の発言である。以下、勤労奉仕とファシズムの関係について。

「池田 僕はナチスのことを勉強しているものですから、ボランティア制度というものがナチズム体制の中でどういう役割を果たしたか……つまり勤労奉仕制度があったわけです。「歓喜力行団」と日本では訳されていたんですが、「喜びを通じて力を蓄える」という意味で、レジャーのための全国組織があった反面で、それとセットになって「帝国勤労奉仕法」という法律に基づく勤労奉仕制度がありました。これをそのままマネをして日本で「国民勤労報国隊」というのができたんですね。

――あれはドイツから直輸入したんですか? そのまま、意識的にですか?

池田 ええ。名称からしても、法律の内容から見てもそうです。もともとナチス・ドイツの勤労奉仕制度は、ナチス時代より前のドイツ社会でとても盛んだったボランティア活動の伝統があったからこそ出来たものでした。これをしっかり見ておく必要があると思います。それは、だからボランティアはだめだ、と言うのではなく、何が大切かということを考えるため、とでも言うのでしょうか。

 つまり、誰でも一人で生きているのではなく、誰かと一緒に生きたいとか、誰かの力になれるような生き方をしたいっていうのは、とても大事なことだと思うんですね。で、ナチズムをはじめとするファシズム、天皇制ファシズムもそうですが、人間の一番大切な「心の問題」を吸い上げていく。慰霊もそうですね。靖国神社でも。ナチのドイツでも死んでしまった人を絶えず追憶するということをキャンペーンとしてやっているんですね。慰霊というのはファシズムにとって非常に大切な儀式なんです。

 宗教に全く関わらない人間でも、今、自分がここに生きているのは、あの死んだ人たちがいるからだとか、誰でも大事な人を失った人であれば、必ず感じることですよね。「今、絶対あの人が見ている」とか、「一緒に生きているんだ」というようなことですね。そういう思いを慰霊という形で全部吸い上げていく、ということです。このようなファシズムの全システムの中の一つとして勤労奉仕もあったわけです。ボランティア(精神)の一番大事なところが全部取られてしまうということ。そういう人間の、ひとりひとりの思いというものが<制度>として形を与えられ、モデル・模範にされていく、と言いますか。」

(引用終わり、続く)
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2007年03月10日

東京都知事選・3

 石原慎太郎の都立高校改革が推進している「特色ある学校づくり」は、結局はありもしない特色を捏造し、かえって各学校を均質化に陥れている。例えば、先述した斎藤貴男氏の母校である北園高校は「IT推進」を、私の出身である両国高校は「国語力の育成」(OBに芥川龍之介がいるからか?)を特色としているらしい。しかし建前上はともかく、現実に目指されているのは進学実績の向上ただそれだけであって、都教委による徹底した締め付けと管理強化によって、かつて存在したリベラルな都立高校文化はほぼ息の根を止められてしまった。

 例えば、かつての日比谷高校を舞台とした庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』という小説がある。そこでは、生徒は自分の担任を選ぶことができたし(新学期のクラス替えの際には、校庭で旗を持って立っている教師たちの中から好きな先生を選んでその前に並ぶ)、今ではおそらく私立の麻布高校あたりに残っているであろうような、自由な都立高校の雰囲気がよく描かれている。私の時代でも、こうしたリベラリズムの残り香のようなものはあって、その多くは勤続何十年という風変わりな名物教師たちの存在によって支えられているのだった。

 しかし、私の出身高校は昨年、都立初の中高一貫校のひとつとなった(同時に「作る会」の歴史教科書が採択された)。石原慎太郎は、一連の改革によって都立高校の復権が始まるのだと言う。しかし、かつて中学受験業界にいた私に言わせれば、入試を行わない現在の制度では(「適性検査」の問題を見る限り)、今後も進学実績はさほど向上しないであろう。少なくとも「作る会」の教科書を採用しているような学校に、まともな親が子供を通わせるわけがない。親の所得格差による教育の機会不均等はむしろ拡大するだろう。

 さらに、これはあまり知られていないが、都立高校では今年の4月から一律に奉仕活動が必修化される。安倍晋三の「美しい国づくり」政策において掲げられた「ボランティアの義務化」(!)は、すでに都立高校の現場において、こっそりと現実のものとなっているのだ。これは実に驚くべきことである。(続く)
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2007年03月09日

東京都知事選・2

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 最近では「行列のできる弁護士」やら「ふくろう博士」やらも立候補を取りざたされ、なにやら混戦模様である。しかし(元)都民の感覚では、やはり「乱戦」でなくては何か都知事選という感じがしない。

 石原慎太郎の数知れぬ悪行の中で、まず第一に何を採り上げるかは迷うところであるが、やはり都教委による日の丸・君が代の強制であろう。まさに石原のファシストたる所以であり、その常軌を逸した反動ぶりと熾烈な弾圧に関しては、もはやあまねく知れわたっているので、ここでわざわざあげつらう必要すら感じない。

 ただひとつ、彼の行った「都立高校改革」なるものが一部で評価されているらしいので、ここで一言だけ述べておく。要するにそれは、学区制の撤廃と競争原理の導入という、まことに典型的なネオリベ政策であり、エリート校(石原の言う「進学指導重点校」)と落ちこぼれ校(同じく「エンカレッジスクール」)の選別・固定化なのであって、実際、一握りの学校(自校問題作成校)はエリート校として生き残るかもしれないが、その代わり残りの百数十校はいわゆる学習困難校となり統廃合されてもかまわない、というきわめて露骨な格差政策なのである。

 このへんの話に興味がある方には、斎藤貴男氏の『人間選別工場――新たな高校格差社会』(名著『機会不平等』第1章の続編とでもいうべき本)あたりを読んでいただきたい。

 石原慎太郎は、自らのサイトで「『結果の平等』を偏重する悪しき平等主義が横行し、画一化された、およそ面白味のない教育が行われてきた」などとほざいているが、徹底した管理統制によって、むしろ教育現場は荒廃の域に達している。ゆめゆめ「都立高校の復活」などという石原のスローガンにだまされてはならない。(続く)

 ※1 関係ないが、斎藤貴男氏が参院選に出馬するという話は流れたらしい。Wikiによると、「2007年参院選に社会民主党から比例区候補として出馬予定していたが、07年2月にこれを取りやめた。理由は『東京選挙区から立候補する川田龍平氏と社民党が共闘できないのはおかしいから』としている。同党は弁護士の杉浦ひとみ氏を同選挙区で擁立予定。ただし、社会民主党と川田龍平氏が東京選挙区で共闘することになったとしても斉藤貴男氏が再度立候補を決意するかは不明」とのこと。
 ※2 写真は高校の卒業式にて。
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2007年03月07日

東京都知事選・1

 20代の頃は一度も投票に行ったことがなかった。「間接民主制は認めない」というのがその理由だった(と思う)が、いま思えば奇妙な、よく訳の分からない理由だ。最近、本棚を整理していたら大学時代の講義ノートが出てきたのだが、線の一本一本が定規で引かれ、活字のように整然と文字が並んでいる。とても自分で書いたものとは思えない。そういえば高校生のとき、クラスの女の子から「いっしょに初詣に行こう」と誘われて、「おれ左翼だから、国家神道には反対なんだ」と真顔で断ったこともあった。よほど風変わりで、潔癖な若者だったのだろう。というか、もはや明らかに神経症である。

 選挙に出かけるようになったのは30を過ぎてからで、たぶん人生において出会った「イタリア」と「関西」の影響が大きかったのだと思う。以後、万事につけ「いい加減」を旨とする人格が形成された。投票所でも適当にその日の気分で「社民党」とか「共産党」とか「宮崎学」とか書いて投票する。昔だったら考えられないことだ。

 というわけで、都知事選が話題である。東京では他にも「貧乏人大反乱集団」の松本哉氏が杉並区議選に、そして快楽亭ブラック師が渋谷区長選に出馬するなど、各所で訳の分からない盛り上がりをみせている(らしい)。実にうらやましい限りである。なんにせよ、祭りに参加できないのはさびしいことだ。とりわけ、私は長いこと都民をしていたので、都知事選にはひとしお関心がある。

 というのも、石原慎太郎というのが「私の嫌いなタイプ」をリアルに、パーフェクトに体現したような人物だからで、生まれてから後にも先にもこんなに嫌いな人物にはお目にかかったことがない。(続く)

 ※本シリーズは今後1ヶ月間、石原慎太郎が落選するまで続きます。
posted by unagi at 08:01| Comment(4) | TrackBack(0) | 都知事選 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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